派遣職員 2名
派遣期間 5月19日~6月1日
震災の爪後が残る仙台空港の周辺を空から眺めた時や、仙台市内への移動するバスの車中からはブルーシートに覆われた屋根や、あちこちに残る瓦礫を目にししたとき、被災地へ来た実感を感じると同時に身が引き締まる思いがしました。
一方で、仙台市の中心部は比較的被害も少なかったことから、人の賑わいもあり普段通りの街の雰囲気に先ほどの被災した地域とのギャップを感じました。
高齢者福祉施設宮城野の里は、仙台市から電車で約15分ほどの福田町にあり、そこから5分ほど歩いたところに、位置しています。
地域包括支援センター、デイサービス、ショートステイ、ケアハウスが併設されており、震災による津波で家を失った方、地震でマンションが傾いて住めなくなった地域の方々が避難されていました。
震災当初は高齢者に限らず地域の人たちも避難していたようでしたが、支援が必要な高齢者の避難者は最大22名受け入れており、私たちが訪れた時には8名の避難者に減っていました。
ケアハウスの食道を間借りした福祉避難所が設置してあり、そこはフルーツ・シャトーよいちの地域交流スペースの半分ほどの広さにベッドが8床設置されており、3組の夫婦と女性1名、男性1名が生活を送っていました。一組の夫婦は自分たちのベッドの周りを畳んだテーブルで仕切っていたが、他の方々はには仕切りは無く、プライベートな空間は無い状態でした。
派遣になる前の段階として、直接的な介護が主ではなく、メンタル面のケアが中心になるのではないかということもあり、どのように支援を行うべきか悩む面もありましたが、何よりも自分たちが何でも良いから手伝いたいという思いでした。
実際の支援内容は、トイレ誘導や食事の準備、コミュニケーション、洗濯等でしたが、避難されていた方々は在宅生活を送っていた方々であり、今後も住宅が決まり次第、避難所を出て、再び在宅生活を送らねばならないということから、自立支援に重点を置いた支援を行っていました。
しかし、在宅生活に戻るにあたっても高齢になった今からアパート暮しになるのには不安を感じると話される人もいて、電気や水道などちょっとした手続き一つにも苦労をしているという話が聞かれました。
当初はどのように接してよいか分からなかったり、私たち支援者に対して気持ちを話してもらえるのはありがたいと感じるのと同時に、今の私たちにはこういった話を聞いてあげられることくらいしかできないが辛かったですが、それでもそれこそが支援に来た意味でもあるのかなと感じました。
気丈にしたのかもしれないが、「地震は強くない。役に立つものが残って、そこからまた生活できるからね。しかし、津波は何もかも持って行ってしまう。ご飯を食べる箸も無い。でも起きてしまった事にメソメソしていても始まらない。笑っていないとね」と笑いながら話されていた方もおり、皆明るくjしているのがとても印象的でした。
中には今回の震災による出会いを俳句にしている方もいた。「大津波 出会いと絆 おきみやげ」と避難所で出会えたことや多くの人々との絆を大切にして、前向きに考えている人々が印象的でした。
職員の報告書から抜粋。
東日本大震災被災地への介護職員派遣報告1 その2へ続きます。