東日本大震災被災地への介護職員派遣報告1 その2

宮城県仙台市宮城野区「高齢者福祉施設 宮城野の里」

 

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4月7日にも大きな余震があった

 

支援者は、東京、沖縄、新潟、そして私たちと同じ北海道と全国津々浦々から来ていました。中心となっていたのが、沖縄からの方で福祉避難所設置当初から支援に来ている方でした。他には1か月ほど前から、他の避難所を経て支援に来ている方もいましたが、多くの方は2泊3日で支援に来ていました。

支援者は2交代制で7時~10時、16時~20時までと、20時~翌朝9時までの勤務となっています。休憩なども特に決まっていない状況もあって、支援者にとっても相当な負担もあるのではないかと感じました。

 

私たちが派遣されたときは既に、震災から2か月が過ぎている状況でしたが、初めて顔を合わせる者どうしてあるにも関わらず、互いに協力してとても円滑に運営されていると感じました。現在は、支援者の役割もある程度確立され支援者同士次々に引き継がれていく状況ですが、当初の支援者は相当大変なものだっただろうと思いました。

 

また、現地施設の職員もここまで来るまでは本当に大変だったようです。3月11日の地震の後、4月7日にも大きな余震があり、この地震による被害の方が大きかった地域がありました。福祉避難所となっている宮城野の里も電気、ガスなどのライフラインがストップして、事務のスタッフの方々朝5時に出勤して玄関付近でたき火をして炊き出しする日々が続いたそうです。

 

この影響で、事務所のスタッフは「事務所の仕事は電気が使えないと仕事にならないから、この震災で事務の仕事が一番溜まりに溜まって大変なんですよ」と話していました。実際、私たちの派遣期間中は毎晩11時過ぎまで仕事をしており、とても大変な様子でした。

 

 

 

被災者の方の話しも伺う機会がありました。

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ある夫婦で暮らしていた方は「うちなんて父さんがデイサービスに行ってたから私一人で逃げることが出来たんだ。もし父さんが家にいたら一緒に逃げることなんて出来ないから、二人とも一緒に津波にのまれていた」「津波が来て必死に二階に逃げたら、知らない人がいてその人も逃げてきたんだ。あの時なら知らない人がいても必死だったから訳が分からなかった」「波に飲まれて家の一階なんて全部飲まれてるから、必死になって泳いで隣の家の屋根に逃げた」「3月11日に震災があって大変な思いをして、これからだって思った時に4月7日にまた地震があって、もう駄目かなとも思った」など生々しい話しが聞くことができた。

 

宮城野の里に来ていた被災した支援者は、地震で防災無線が壊れ、津波の情報が入ることなく、職員が真っ黒い津波に気付いた時にはもう遅かったという・・・・。そのデイサースの利用者や職員の方も亡くなった方おり、難を逃れた職員にも津波にのまれた記憶は無く、気付いたら2階のホールにいたとか、津波にのまれたが、偶然1階の窓が開き、そこから上に泳いで2階の窓にしがみつき助かったという人もいたということでした。

 

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被災された当時の話を聞いていて本当に何とも言えない気持ちになりました。

 

福祉避難所から自宅に戻られた方の自宅に伺う機会もありました。訪問して片付けの手伝いをしましたが、高齢者夫婦世帯で、片付けと言っても重たいものを動かしたりなどは大変です。その方の家も1階は水浸しとなり玄関の靴箱が使えなくなったので、本棚を空にして玄関に設置して靴箱として利用するため模様替えの手伝いをしたり、津波の塩水で枯れてしまった草木を片付けたりもしました。

福祉避難所から戻った方のアフターケアも重要だと感じましたが、高齢者本人だけではできないことをボランティアの方々の力も借りて支援をしていかなければ、普通の生活を取り戻すのは非常に大変な時間を要すると感じました。

 

支援物資を届るため、津波の被害大きかった町を見ることもありました。

石巻市の幼稚園に救援物資を届けるため、石巻市に入った際は、街に入った瞬間に異臭が漂い、砂埃が舞っており交通整理の警察官もマスクをして誘導にあたっていました。

蒲生地区という地域にも入った。家は流され基礎だけしか残っていない、川に落ちかかっている車、折れた電柱・・・私たちは戦争を知らないか、戦争のあとはこんな感じになるのだろうかと感じました。

特に、日和山という高台から街を見た時は、言葉にならない光景が広がっていました。漁港が被害にあったために、魚が腐った臭いと大量発生したハエが高台まで昇ってきていました。

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また、名取市の避難所に救援物資を届けに行きました。その避難所は市のセンターでもありましたが、避難所の玄関は病院のような消毒の匂いがしており、トイレもきれいという状況ではありませんでした。廊下に段ボールで仕切りを作って自分の空間を作り生活をしていました。おむつ、ティッシュペーパー、生理用品などが一番最初になくなっており、私たちが入った時でも未だ、こういった物資が不足しているのだと感じました。

避難所では「なんでも相談会」と就労相談、医療相談、法律相談など、弁護士や医師、看護師などが対応していました。特に、法律相談の弁護士は予定時間を大幅にオーバーして相談を行っていた。被災後、法律問題で困るケースも多いということを実感しました。

 

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震災は他人事ではない

滞在中に、仙石線が一部復旧という明るいニュースがあり、皆が新聞やテレビのニュースをみて喜んでいました。復旧したことは皆にとって大きな喜びや励みになっているようでした。

しかし、同時に地元の新聞では毎日、被災当日のことをとりあげており、被災地の現実を見た時他人事ではなく、海からそれほど離れていないフルーツ・シャトーよいちではもし同じことが起きた時、施設の入居者を避難させることができることができるのか不安を感じました。

具体的な避難の手順を確認したり、避難場所を明確にするなどの対策を考えなくてはならないと強く感じました。

 

最後に

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今回の災害派遣では、ただ頷いて話を聞いたり、避難者のそばにいて、冗談等を話して一緒に笑っている事しかできませんでした、一方で自分の中では人間として多く事を学ぶ事ができました。

東日本大震災の発生ということがきっかけとなり、派遣をされたことになるので多くを学ぶことができ、良い経験をしたという表現は適切ではないような気がしていてとても複雑な気持ちにもなります。

前を向いて、復興を目指して歩いている人々の力強い姿を目にし、逆に元気をもらい福祉避難所の皆さんと全国からの支援者の強い絆を感じました。

仙台空港にも、宮城野の里にも全国からの多くの応援メッセージが貼ってあり、自分たち支援者も含め皆が協力して手を取り合っていける世の中捨てたものじゃないなと少し安心しました。

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